今日はうるう日です。うるうるする日です。みんなでうるうるしましょう。21世紀最初のうるう日だっていうので、コンピュータなどでまた問題が起きるんじゃないかと地味に注目されているようです。なんで出だしからこんな話題なんでしょうか。
最近、メールなどでお会いしたことのない方からメッセージを頂くことが増えてきました。実際にはとても離れたところからのメッセージだったりするのですが、メールや携帯電話での会話だけでは全く距離感を感じないので、不思議なものです。面白いです。時代が変えたコミュニケーションだ。
かれこれ割と長い間僕は、これからCDや本などが姿を消してそれらが単なる“データ”としてやりとりされる時代が来ることに、否定的な考えを持ち続けていたわけですが、精神論はともかく、体感的に一番何に違和感を感じるかを考えたのです。
結局“そのもの”を手に取って自分の物にするという“所有感”が無くなってしまう不安というか、危うさ、つかみどころの無さが怖いんだと気付いた。例えば、僕はネット上の読み物とか参考テキストなんかを、ちゃんと腰を据えて読みたいときは、プリントアウトしてゆっくり読むタイプです。これは目が疲れる等の理由もあるけど、手にとった感触で全体の分量がわかるとか、流れがつかめるとか、アンダーラインがひけるとか、そういう実体がある安心感が欲しいからなんだよなぁ。気に入った本をいつも持ち歩いて、ボロボロにできる喜び、みたいな。手触り、匂いを感じられるということ。音楽だったら、レコードやCDをジャケット含めていつも側に置いておきたくなるようなワクワク感。コンサート会場へ行って、開演前のザワザワした空気を味わう楽しみ。これがあるのと無いのでは、えらい違いです。乱暴に言えば、文化と単なる情報の違いです。
とは言っても便利さには勝てないので、ますますデジタル化されていくとは思うし、それが全て間違いでは無いと思うけど、こういう所有感に対する欲求は物事がデジタル化されればされるほど強くなっていくのではないかな。
例えば、携帯電話。人とのコミュニケーションだけでなく、音楽や映像、ゲーム、その他諸々あらゆるものを手のひらサイズの中に収めておきたい、というのはその欲求の一つの表れなんだろうと思うのです。僕たちはきっと、つかみどころの無いものを手のひらの中に収めて安心したいんだ。僕が危惧するのは、その「手のひらサイズ」の文化だけで育つ、次の子供達の世代のことです。うるうるしてきます。
かれこれ割と長い間僕は、これからCDや本などが姿を消してそれらが単なる“データ”としてやりとりされる時代が来ることに、否定的な考えを持ち続けていたわけですが、精神論はともかく、体感的に一番何に違和感を感じるかを考えたのです。
結局“そのもの”を手に取って自分の物にするという“所有感”が無くなってしまう不安というか、危うさ、つかみどころの無さが怖いんだと気付いた。例えば、僕はネット上の読み物とか参考テキストなんかを、ちゃんと腰を据えて読みたいときは、プリントアウトしてゆっくり読むタイプです。これは目が疲れる等の理由もあるけど、手にとった感触で全体の分量がわかるとか、流れがつかめるとか、アンダーラインがひけるとか、そういう実体がある安心感が欲しいからなんだよなぁ。気に入った本をいつも持ち歩いて、ボロボロにできる喜び、みたいな。手触り、匂いを感じられるということ。音楽だったら、レコードやCDをジャケット含めていつも側に置いておきたくなるようなワクワク感。コンサート会場へ行って、開演前のザワザワした空気を味わう楽しみ。これがあるのと無いのでは、えらい違いです。乱暴に言えば、文化と単なる情報の違いです。
とは言っても便利さには勝てないので、ますますデジタル化されていくとは思うし、それが全て間違いでは無いと思うけど、こういう所有感に対する欲求は物事がデジタル化されればされるほど強くなっていくのではないかな。
例えば、携帯電話。人とのコミュニケーションだけでなく、音楽や映像、ゲーム、その他諸々あらゆるものを手のひらサイズの中に収めておきたい、というのはその欲求の一つの表れなんだろうと思うのです。僕たちはきっと、つかみどころの無いものを手のひらの中に収めて安心したいんだ。僕が危惧するのは、その「手のひらサイズ」の文化だけで育つ、次の子供達の世代のことです。うるうるしてきます。