近藤 嶺 official blog

カテゴリ: これ重要

「ドラゴン桜」に登場する先生のモデルになったという方を
取り上げた番組を見る機会がありました。
その方は塾の英語の先生なのですが、
考え方やポリシーは「人生」全てに通じるものがありました。
中でも印象的だったのは、
「教える上で一番大切なことは、ごまかさないこと」という言葉。
子ども達の質問、疑問に対して「ごまかして」答えたことは、
すぐに見抜かれてしまう。だから真剣に向き合う。
遠回りこそが近道になる。という意味でした。
これは、人付き合いや、もの作り、全てに言えることだと思います。
人に対して「ごまかして」しまうことは、
自分をごまかしているのと同じなわけで。
自分に対する「ごまかし」を、自覚することは簡単ではないと思います。
少なくとも僕は、凄く難しいことだと感じています。

音楽の場合は・・・。英語と違って「答え」が無い。
答えが無ければ無いほど、ごまかしが許されてしまう。こわいですね。
自分自身への戒めとしても、胸の中に書き留めた言葉でした。

ずっと心に刻み込んでいる格言?のような言葉があります。

「いつも自分の手に負えないくらいの仕事を引き受け、
 それにベストを尽くしなさい」

なーるほど。
いつも居心地の良いところで安心しているより、
ハラハラドキドキしながらでも、
自分の思っている限界以上の新しい挑戦をしていかないと、
成長できないよね。

この頃あらゆることが勉強になる毎日。

例えば・・・劇伴系の音楽制作では、
「いかにそのシーンのニュアンスを音で表現するか」
「一つ一つの音のディテールや“間”に気を配れるか」
ライブのサポートでは、
「お金を払って見に来てくれたお客さんの立場で、
 最後まで“魅せる”ライブについて客観的に考えること」とか
「MCや流れの狙いや意図の重要性」とかとか。
書ききれません。

どれも当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、
経験として得たものは、知識ではなくて、体に染みつく感じがします。

明日はバイオリンと一緒にライブをするんですが、
そのリハでも、一緒に演奏したり、
バイオリンのための曲の楽譜を見ているだけで
違う楽器の表現方法やアプローチの仕方なんかも、たくさん発見がある。

こういう経験を、自分自身の活動にフィードバックさせて
面白いものを作っていきたいなーと、ひしひしと感じてますよー!
フォーーー!(キャラが違う)

とにかく、どんなに忙しくても、体調が悪くても、テンパっていても
絶対に忘れちゃいけないのは、「誰にも負けない向上心」!

調子が良い時に、良いものが作れるのは当たり前。
調子が悪い時にいかに自分を整えて、
クオリティを落とさずに作り上げられるかが、大事なようです。
日頃から自分の管理(体調だけではなくて)をしていないとね。

 最近、思い立ったらすぐ行動するように心がけている。例えば、何かを“する”か“しない”か迷って悩んだとして、結局「する」方を選んだとしたら、迷っていた時間を無駄にしたような気がしてしまう。もちろん、慎重さは大切なのだけれども。最短のルートは、「発想」→「行動」の直結パターン。そう心がけているうちに、すぐ行動しないともどかしい気分になる今日この頃だ。僕の場合は、結構日常の小さなレベルでそれが多く起きている。ゼリーが食べたいと思ったらすぐ買いにいくとか、観たいビデオがあったらすぐ借りてくるとか。

 この日記を出来る限り毎日書く、と決めてもうすぐ一ヶ月くらい経ちますが、最初はなかなか大変だったのが、この頃は毎日書くことが自然になってきました。(それでもたまに締め切り前とか、飲み過ぎとかで遅れますが。)そのほとんどは、どうでもいいような内容だけどね。他にも、ずっと映画鑑賞をしていなかったので、また少し週に何本か目標を決めて、映画やビデオを観るようにしたいなと思っていたり、読書をするとか、週末は料理の研究するとか、スポーツで汗を流すとか(あー、だんだん嘘っぽくなってきたぞ)、仕事や日常生活とは無関係に思える当たり前のことでも、体に染み付けていくと、充実感も時間の使い方も質が高くなっていきそうですね。QOL万歳!

僕の愛読書「7つの習慣」の中に「相手に理解される前に相手を理解しようとする」ことの薦めが載っています。よく考えてみると、昔(10代の頃とか)は「どうしてあの人は自分を理解してくれないのだろう」と考えて行き詰まることもあった気がしますが、それ以上にその人を理解しようとしていたかと考えると、まだまだだった。それでは、ゆとりや余裕がなくなってしまいます。まずは自分が相手を理解して(そう努めて)、尊敬して、感謝する。最近改めて大切にしたいと思っていることの1つです。

 例えば自分が正しいと思ってやってきたものを、どこかでおかしいなと気付いた時、それをボツにするのはとても勇気がいる。音楽や映像などモノを作る作業は、いつも真っ直ぐ完成に向かって進んでいくとは限りません。

煮詰まってくると、あれを試してダメだったらこれを試して、というトライ&エラーの繰り返しになります。当然、ある程度まで自分が(又はチームが)自信を持って作ってきたものに疑問を感じることも出てきます。それを解決する一番極端な方法は、それをボツにして一から作り変えることですが、そこまでにかけた時間や体力、集中力・・・etc を考えると、そういう捨てていく判断は葛藤も出てきます。完成間際で方向性の間違いに気付くことだってあるわけです。

特に最初から最後まで一人で制作する場合は、自分との戦いになります。頭の中にどれだけ形が見えているか。これを作り手の内側からの視点だけで判断しようとすると、客観性を失った独りよがりのものが出来上がっていきます。逆に受け手のことだけ考えて自分を殺すと、最後にわけがわからなくなります。このあたりのバランス感覚が感性というものの一つなのかもしれないなぁ。

 ここ数日間は、人にお会いしてお話する予定が詰まっている。遊び、飲みから、仕事の営業、ご挨拶などなど、いろいろと。以前は割と人間嫌い(笑)だったので、一人でいる時間が好きだったけれども、最近は一人でいる時間を大切にしつつ、年代、職、男女を問わず、人と会って話すということの大切さを感じさせられる。

今日、あるお世話になっている人生の大先輩に、芝居と映画、そして人と直接会って話すということの、情報量の多さについて教わった。つまり、Webで調べ物をする、ネットで買い物をする、メールやチャットで話す、テレビでロードショーを観る・・・どれも簡単で手軽、便利なものだけど、それだけに自分に入ってくる情報量が少ないのだと。すぐ忘れる。

逆に、直接誰かと会って、面と向かって話したこと、生身の人間から伝わってきたものは、その場にいる人間全てに、深い印象として残るものだということです。そこから得られる情報量は、もの凄く多いということ。当たり前のことだけど、忘れがちでもあります。

 京都議定書が7年かかってようやく発行された。時間がかかりすぎ。「奪われし未来」や「沈黙の春」が出版され、環境庁が設置されてから、もう3〜40年経っているのに、何も変わっていないどころか事態は深刻になる一方です。産業革命が起こった時点で逃れられない悪循環。地球人全員で危機感を共有するべし。

失敗やコンプレックスを、自分で笑いのネタに変えることができるのはカッコイイ。

 今日学んだこと。 ・若いうちに自分に投資する ・「感性」とは一人一人基準が違うのではなく、本当に“良い”ものを絶対的な尺度で測り取って、そこに近づけるため、近づくためにどうコントロールすれは良いかを的確に把握できる、“感じる”能力のことである。 ・自分が本当に必要としていて世に出ていないものは、自分の手で作る。 ・客観性の重要性 ・常に自分は下手だと意識し続けること  その他たくさん。

 明けましておめでとうございます。もう2005年ですね。4年前、新世紀になると騒いでいたことが随分と昔に感じられます。私たちが年末年始で浮かれている間にも、スマトラ沖の大地震・津波の悲劇を始め、良いニュースより悪いニュースの方が目立ちます。素直に「新年おめでとう」と言えない出来事が続いていますが、2005年が少しでも多くの人に幸せな1年となるよう、心から祈っています。  今年は経験を積み、スキルを上げながら、ソロでの作品発表やライブも積極的に行っていきたいと思います。最近はジャズに関心を持っているので、そういう要素も吸収していきたいですね。この一年はどんな出会いが待っているのか、とても楽しみです。より多くの方に共感していただける音楽を作ります。   2005年用の手帳も用意しました。今年の大晦日、この手帳を読み返して何を思うんでしょうか。年賀状が少ししか来なくて泣きそうです。ちなみに昨年最後の悲しかったことは、紅白歌合戦のジョン健ヌッツォ氏の「いとしき〜♪」を見逃したことです。ご覧になった方の詳細求む!  僕自身も含め、皆さんにとって素晴らしい一年になりますように。今年もよろしくお願い致します。

 シュルリアリスムというのは主観的な超現実主義なのであって、シュールなものを作ろうと思った時、作り手がとにかく自由な発想で作り上げていくというのは第一前提なのかもしれないが、それ自体に説得力を持たせるには、それなりの客観性かあるいは相当綿密に作り込まれたコンセプトが無ければ成立しないと僕は思っている。 これは、映像も、音楽も、小説も舞台も、表現芸術全てにおいてそうなんじゃないか。つまり、自分の中のイメージをただ並べて、受け手に放り投げて、解釈を丸投げするというのは、作者の“芸術家”という傲慢であって、そういうのはただの自己満足なんじゃないか。 解釈を受け手に委ねるのと、作り手が解釈のための骨組みを放棄するのは、全く別なんじゃないか。昔から僕はそう思いながら映画や美術作品を見ているけれども、やっぱり誰もが評価する作品は、あらゆるところまで作り込まれていて、最終的に、ああそういうことか、と感銘を受けるわけで。 そういう意味で、僕が最近ビデオを引っ張り出してこようと思っているのが、ジャンルはちょっと違うけど「2001年宇宙の旅」です。なぜか年越しシーズンになると観たくなるんだよねぇ。

 自分のことを吐き出すと、相手も同じだけ吐き出してくれる。簡単なように思えて、これがなかなか、いつも表面的なものに囚われてしまって難しかったりする。でも今僕が一番心に留めていることです。  人と人とのつながりとか、音楽とか言葉とか、昔は当たり前のように気にしていなかったことが、今は何よりも大切に思えて、人の音楽を聴いても職業病っぽく分析ばっかりして涙を流すことなんて滅多に無かった僕が、最近は音楽や人からもらった言葉で、つーっと涙が流れることがある。そんな時は、一緒に他の何かも洗い流されてる。たぶん、そう思う。それくらい涙腺が弱いというか、感受性がいつもと違っている今日この頃です。  一方で、もともとすごくシビアで現実的な自分もいるんだけれども。たまにはこういうのも悪くない、かな。感覚をリセットできるから。

 アイデアっていうのは尽きることなくいくらでも湧き出てくるものだけど、それを実際に形にするのは大変だったりする。アイデアというのは単なる「思いつき」に過ぎない。世の中に面白い発想をする人はたくさんいても、それを生産性の伴う企画として完パケることが出来る人は少ない。アイデアとプランの違いかな。くだらないアイデアでも実際に作り上げることが出来る人はすごいと思う。 怖いのは、アイデアの段階でそれをクリエイティブだと誤解することです。思いつきというのは、きっかけであって結果ではない。絵や音楽で言うならせいぜい、落書きや鼻歌程度の価値に過ぎない。発想することが難しいんじゃなくて、形として確定するのが難しい。でもそれが一番楽しい。

 というわけで(?)先日は皐月のライブでした。群馬では久しぶりにホールでピアノを弾いたのですが、スタンウェイのコンサートグランドだったので気持ちよかったです。バンド演奏も楽しかった。関係者の皆さんお疲れ様です。心配していた僕の目玉焼き焼き機も本番中に発火することなく、また凍結することもなくちゃんと動いていました。皐月の1stマキシ「アザレア」は今月28日発売とのことです。あ、明日じゃん。歌声の良さはもちろんのこと、近藤嶺サウンドの歌モノを聴いてみたいという方にもおすすめいたしますので聴いてみてくださいね。

 合間を縫って東京現代美術館のオノ・ヨーコ展に行ってきました。一般的にオノヨーコのイメージにありがちな「平和」や「自由」主義どうこうより、彼女の初期作品のミニマルな現代音楽的アプローチが興味深く印象的でした。一方で、彼女と同じ表現をその辺の無名の人間がやったところで、ただの変わり者扱いされて終わるだろうとも思うわけです。人を強烈に惹きつけるカリスマがあってこそ、主張に説得力が生まれる。その人の生き様とか理念とか、キャラクターやネームバリューまで含めて、一見アートとは無関係なバックグラウンドが「変人」と「アーティスト」を区別する。

 僕は自称アーティストや自称芸術家の人達でよくありがちな、正直よく意味がわからない作品や表現の多くが独りよがりで自己満足の世界に終始しているのを見ると、嫌気がさします。それは自分がそういうただの自己満足に陥りたくないからです。美術でも音楽でも、それがアートなのかエンターテイメントなのか、それともただの自己満足の趣味なのか、決めるのは表現者ではなくて受け手なのです。ミニマルミュージックなんだ!と主張して、意味もなく不協和音の繰り返しを垂れ流したところで、誰が感動するのでしょうか。とここまで書いているうちに話がそれてしまったので、もう終わります。

 今日はうるう日です。うるうるする日です。みんなでうるうるしましょう。21世紀最初のうるう日だっていうので、コンピュータなどでまた問題が起きるんじゃないかと地味に注目されているようです。なんで出だしからこんな話題なんでしょうか。  最近、メールなどでお会いしたことのない方からメッセージを頂くことが増えてきました。実際にはとても離れたところからのメッセージだったりするのですが、メールや携帯電話での会話だけでは全く距離感を感じないので、不思議なものです。面白いです。時代が変えたコミュニケーションだ。

 かれこれ割と長い間僕は、これからCDや本などが姿を消してそれらが単なる“データ”としてやりとりされる時代が来ることに、否定的な考えを持ち続けていたわけですが、精神論はともかく、体感的に一番何に違和感を感じるかを考えたのです。

 結局“そのもの”を手に取って自分の物にするという“所有感”が無くなってしまう不安というか、危うさ、つかみどころの無さが怖いんだと気付いた。例えば、僕はネット上の読み物とか参考テキストなんかを、ちゃんと腰を据えて読みたいときは、プリントアウトしてゆっくり読むタイプです。これは目が疲れる等の理由もあるけど、手にとった感触で全体の分量がわかるとか、流れがつかめるとか、アンダーラインがひけるとか、そういう実体がある安心感が欲しいからなんだよなぁ。気に入った本をいつも持ち歩いて、ボロボロにできる喜び、みたいな。手触り、匂いを感じられるということ。音楽だったら、レコードやCDをジャケット含めていつも側に置いておきたくなるようなワクワク感。コンサート会場へ行って、開演前のザワザワした空気を味わう楽しみ。これがあるのと無いのでは、えらい違いです。乱暴に言えば、文化と単なる情報の違いです。

 とは言っても便利さには勝てないので、ますますデジタル化されていくとは思うし、それが全て間違いでは無いと思うけど、こういう所有感に対する欲求は物事がデジタル化されればされるほど強くなっていくのではないかな。

例えば、携帯電話。人とのコミュニケーションだけでなく、音楽や映像、ゲーム、その他諸々あらゆるものを手のひらサイズの中に収めておきたい、というのはその欲求の一つの表れなんだろうと思うのです。僕たちはきっと、つかみどころの無いものを手のひらの中に収めて安心したいんだ。僕が危惧するのは、その「手のひらサイズ」の文化だけで育つ、次の子供達の世代のことです。うるうるしてきます。

 小学1年生の時、まだ早寝早起きの小学校生活に慣れなくて「幼稚園の頃は良かったなぁ」とつぶやいたことがある。(今思えば、老けた子供である)

 その時、当時の担任の先生に、「小学校に入ると幼稚園に戻りたくなる。中学校に入れば小学校に戻りたくなる。でも大学へ入って社会人になったら、戻りたいとは思わなくなるよ。」みたいなことを言われて今でもそれが記憶に残っています。確かにその通りでした。

でも、たまに懐かしい中学時代に戻ってみたくなるときがあります。たまごっちが流行っていました。

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